大河ドラマ『麒麟がくる』の放映回数も残りわずかとなってきました。最終回が近づくにつれ、より一層盛り上がりを見せるなか、女優の芦田愛菜さんが演じる明智光秀の娘・たま(のちの細川ガラシャ)にも注目が集まっています。
長岡京ガラシャ祭実行委員会のYoutubeチャンネル「長岡京ガラシャ祭チャンネル」では、明智たまの婚礼の儀を再現した動画をはじめ、大河ドラマ『麒麟がくる』の舞台・戦国時代に関連する動画を公開中。大河ドラマの時代考証を務める小和田哲男氏や、城郭研究の第一人者である千田嘉博氏らが監修・出演した豪華な動画も。今回は、すでに公開されている4本の動画をピックアップして、その見どころを紹介します!
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見出し一覧
・小和田哲男氏が監修!細川ガラシャ「婚礼の儀」を実写映像化!
・城郭考古学者:千田嘉博氏が監修!「近世城郭の原点」勝龍寺城の秘密に迫る!
・謎に満ちた明智光秀と細川ガラシャの人物像に迫る!
小和田哲男氏が監修!細川ガラシャ「婚礼の儀」を実写映像化!
まず紹介する動画は「激動の人生を駆け抜けたガラシャの生涯 in 京都長岡京」。大河ドラマ『麒麟がくる』の時代考証を務め、戦国史研究の第一人者として知られる小和田哲男氏監修のもと、明智光秀の娘・たま(のちの細川ガラシャ)が、長岡京市にある勝龍寺城の細川忠興のもとへ輿入れした史実を再現されています。それではさっそく、動画の見どころをダイジェストでお届けします。
時は戦国、織田信長による天下統一が目前に迫ったころです。明智光秀の娘・たまは、信長のすすめにより、細川藤孝の長男・忠興(ただおき)と結婚することに。映像は、明智家の居城、滋賀県の坂本城でたまと両親が別れのあいさつを交わすシーンから始まります。この時、たまはまだ16歳で表情にもあどけなさが残ります。
この結婚は、信長のもとで共に戦う明智家と細川家の両家にとって望まれたものでした。とはいえ、幼い頃から手塩にかけて育てたたまとの別れを目前に、両親である光秀・煕子(ひろこ)夫妻も神妙な面持ちです。
たまを乗せた輿は、京都府 長岡京市の勝龍寺城を目指し、家臣らとともに両親の元から旅立ちました。たまの胸中は、まだ見ぬ花婿・忠興への期待と不安でいっぱいです。時代の波に翻弄された女性、明智たまの波乱万丈なドラマはここから始まります…。
専門家の監修のもと、当時の服装や婚礼のしきたり・作法などを再現し、4K画質の高精細カメラで撮影された美しい映像は、まるで大河ドラマさながら。約10分の動画ですが、のちに細川ガラシャとして知られるようになる、たまの人生の転機を描いた見ごたえのある映像です。
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城郭考古学者:千田嘉博氏が監修!「近世城郭の原点」勝龍寺城の秘密に迫る!
次に紹介するのは、明智たまと細川忠興の婚礼の儀が行われ、彼女らが新婚生活を送った勝龍寺城の知られざる秘密に迫った動画です。明智光秀が山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた後に逃げ込んで籠城し、夜中ひそかに落ち延びた城としても知られる勝龍寺城。そんな勝龍寺城ですが、発掘調査の結果、当時最先端の機能を備える城だったことが明らかになったそう。動画では、 テレビ番組などでもお馴染み、城郭考古学研究の第一人者・千田嘉博氏がその特徴について解説しています。
勝龍寺城は、京のみやこから大阪方面へ抜ける玄関口にあります。「久我畷(こがなわて)」や「西国街道」といったといった主要な街道や、桂川・木津川・宇治川の三河合流地点にもにらみを効かせる交通の要衝に位置します。
元亀2年(1571年)、この地が京都を統治するうえで極めて重要になると考えた織田信長は、細川藤孝に城の改修を命じそれまでの簡易な砦から、当時最先端の城郭に造り変えました。では、藤孝は一体どのような特徴を持った城に造り変えたのでしょうか?
それは「石垣」「瓦」「天守」という、3つの特徴を備えたものであったことが、動画内で解説されています。また、この画像で千田氏が立っているのは、勝龍寺城の本丸土塁の上。ここから見ると、本丸内へ堀や橋を越えて敵が攻めようとしたときに側面から弓や鉄砲で反撃できる「横矢がけ」という優れた防衛システムも備えていたのだそう。
動画内では、千田氏監修のもと、今は失われた“幻の天守”の復元に挑戦しています。天守では茶会や連歌会が行われた記録もあり、文武両道の武将と知られる細川藤孝らしいこだわりが感じられる、優美な雰囲気をたたえた天守が描き出されました。
勝龍寺城は、織田信長が建てた安土城よりも早い時期に天守を備えていた城ということで、非常に重要な城だそうです。
ドローンで撮影された空撮映像なども駆使して、城の立地の特徴なども紹介。加えて、さらに詳しい千田氏の解説を聞くことができるほか、城主である細川藤孝に関するエピソードが紹介されています。
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謎に満ちた明智光秀と細川ガラシャの真の人物像に迫る!
11月8日(日)に開催されたシンポジウム「明智光秀と細川ガラシャ―戦国を生きた父娘の虚像と実像―(講演会編・座談会編)」の動画も公開されています。長岡京ガラシャ祭実行委員会と国際日本文化研究センターの共催で行われたこのシンポジウム。登壇者は、国際日本文化研究センターの井上章一所長、フレデリック・クレインス教授、呉座勇一助教、東京大学の郭南燕特任教授の4名です。シンポジウムでは、それぞれの研究者が最新の研究から、まだまだ謎に包まれている明智光秀とたまの人物像について講演されました。
最初の登壇者は、日本中世史を専門に数多くの著書を刊行されている呉座氏。「細川ガラシャはどこで生まれたのか?」をテーマにお話しされました。生誕地すらいまだに明確ではないという事実に、ガラシャは本当に謎多き人物だということがわかります。
次は、ヨーロッパに残る資料と、日本に伝わる資料とを比べることで日本の歴史を読み直すという研究をされているクレインス氏。ヨーロッパのキリスト教布教団体「イエズス会」の残した記録と、ガラシャ本人が書いた手紙から、ガラシャの性格を考察されました。ガラシャは信仰心に満ちた頑なな人物だったのか?それとも思いやりに満ちた穏やかな人物だったのか?詳しい内容は動画をチェックしてみてください。
キリシタン文学の研究者として知られる郭氏の今回のテーマは「ガラシャはなぜキリシタンになったのか」。明智光秀の娘として、細川忠興の妻として、幸福な半生を過ごしていたにもかかわらず、本能寺の変をきっかけに不幸な境遇に陥ったガラシャ。そんな彼女がキリスト教を求めた心理について講演されました。
最後の登壇者は、「美人論」の専門家として知られる井上氏。現在では戦国一の美女として知られるガラシャですが、そのイメージはどのように作られていったのか?ということについて語られ、会場は大いに盛り上がりました。
↓「明智光秀と細川ガラシャ~戦国を生きた父娘の虚像と実像~講演会編」の視聴はこちらから
「座談会編」では、講演会の後に行われた4人の座談会の様子を見ることができます。「明智光秀は穏健で保守的な人物だったのか、あるいは裏切りを好む巧妙な人物だったのか?」など、興味を引くテーマについて、通説を覆すような内容も含む議論が交わされました。
シンポジウムと聞くと難しそうに思われますが、歴史に詳しくない人でもわかりやすく、引き込まれるような内容となっています。この動画を視聴した後に大河ドラマ『麒麟がくる』を見ると、また違った楽しみ方ができるかもしれませんね。
↓「明智光秀と細川ガラシャ~戦国を生きた父娘の虚像と実像~座談会編」の視聴はこちらから
いま大注目の細川ガラシャや明智光秀に関する動画を紹介しました。動画で気軽に学び、大河ドラマ『麒麟がくる』をさらに楽しみましょう。
なお「長岡京ガラシャ祭チャンネル」では、今回ご紹介したほかにも、明智光秀や細川藤孝らの生涯をたどるアニメーション映像や著名人による街歩き番組など、さまざまな動画がアップされているので、そちらも要チェックです。
また1月31日(日)と2月7日(日)には、大河ドラマ「麒麟がくる」の歴史考証を務める
小和田哲男氏が、勝龍寺城の歴史や長岡京市について話す映像が配信される予定です。こちらもお見逃しなく!
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