JR長岡京駅西口に隣接する「バンビオ」は、今年6月に誕生20 周年を迎えました。大手化学メーカーの工場跡地を含む京都府下で初めての再開発事業で、構想から完成まで十数年。大型商業テナント撤退による事業の見直し、バブル崩壊を受けて厳しさを増した経済状況 ——様々な逆風を乗り越えて完成し、まちのにぎわいの場として、市民の暮らしに寄り添い続けています。当時の再開発事業に関わったキーパーソンが語る、“あのとき”と“これから”を紹介します。
※本記事は、バンビオ20周年記念事業で制作された記念冊子との連動記事で、市民ライターが企画・取材・執筆しています。
※記念冊子はこちらからご覧ください。
バンビオに集まった再開発事業の関係者の皆さん
(左上)佐々谷、塚野、奥村、中井
(左下)右川、山本、佐藤、野村、中川 ※敬称略
◇長岡京市バンビオ広場公園等にぎわい創出事業実行委員会
会長 佐藤 尚厚
◇長岡京市役所
再開発部長(当時)山本 昇
再開発部参事(当時)右川 正
◇再開発組合 事務局長(当時) 野村 秀明
◇株式会社アール・アイ・エー<事務局支援>
(当時)中川 長継
奥村 雅一
中井 新治
◇近鉄ファシリティーズ株式会社
塚野 哲浩
◇長岡京都市開発株式会社
佐々谷 明光
逆境から全てが始まった
━計画の白紙化や大型商業テナントの撤退など、想定外の出来事が続いたと伺いました。まずは、そのときの状況を教えていただけますか。
当時の駅前再開発エリア
工事説明会の様子
佐藤(にぎわい創出実行委員会会長)
あらためて振り返ると、入居予定だった大手スーパーの撤退は本当に大きな出来事でした。最初はショックでしたが、結果的にはそこが新たな計画への転換点になったのが良かったと思っています。
山本(再開発部長:当時)
土地の売買や補償額の調整など、バブル崩壊によってすべてが変わりました。国や市役所内での交渉、利害の調整……。一つ一つ丁寧に進めるしかありませんでした。結果的に地元の皆さんの協力で乗り越えられたと思っています。
中井(㈱アール・アイ・エー/事務局支援)
当初計画が白紙になったことで、現実的なプランに切り替えることができました。商業施設は1階を中心としたつくりに変更し、マンションの規模も見直されました。今振り返ると、あの撤退は“成功の始まり”だったのかもしれません。
―ピンチをチャンスに変えたんですね!計画変更の中で、一番の「成功のカギ」は何だったのでしょうか?
中川(㈱アール・アイ・エー/事務局支援:当時)
新しい再開発計画のなかで、市が公共施設を入れてくれたことがとても大きかったです。民間の収入が見込めない中で、公共施設の存在が“まちに人が集まる構造”をつくったと思っています。
右川(再開発部参事:当時)
私は5年間この事業に関わりましたが、振り返ると、まさに適材適所で、皆さん“昔気質”の熱量のあるタイプ。それがこの再開発には必要だったんだと思います。
野村(再開発組合事務局長:当時)
私は当時、建設や開発の知識はゼロ。地権者の交渉に苦労はありましたが、「市のためにやらなあかん」という気持ちで必死でした。理事会の皆さんや地権者さんに支えられたことが一番の思い出です。
―地元の熱意と行政の決断、そして設計者の知恵。皆さんの連携が不可欠だったのですね。
奥村(㈱アール・アイ・エー/事務局支援) 右川さんが言われたように、野村さんは、地元の人に寄り添う方。これまで全国の再開発に関わってきましたが、数字と論理だけでは成功しないのが現実です。バンビオは関わる人と経済的タイミングが噛み合った、まさにその典型的な成功事例といえると思います。
広場はまちの“劇場”
━駅前に広がる大きな広場は、バンビオの顔ともいえる存在です。人が集まり、出会いが生まれるこの場所は、どのような考えから生まれたのでしょうか。
バンビオ広場公園
駅前広場コンサート
右川(再開発部参事:当時)
当初の計画になかった広場公園は、ただの空間ではなく“劇場”だと思って設計しました。上の階から広場全体を見渡せるような構造を取り入れたのは、注目が集まりやすくなるようにという意図がありました。当時から「人が自然に集まる演出の場」にしたかったんです。また、別で進められていた、駅から西へ進む道路の拡幅も、再開発をきっかけに早く長岡天満宮まで進めば良いなと思っていました。
山本(再開発部長:当時)
実は雨天時にも対応できるように、収納式の屋根を設ける案もありました。見積もりでは当初3,000万円と言われていたのが、最終的には億単位になって現実的ではなく、断念しました。
中川(㈱アール・アイ・エー/事務局支援:当時)
広場は2,500㎡ほどあります。これからの課題は「どう使ってもらうか」。潜在的なニーズもあるはずですし、にぎわい創出事業実行委員会には、地域と一緒に“使い方を育てる”役割を果たしていただきたいです。
佐々谷(長岡京都市開発㈱)
にぎわいを生むには仕掛けと集客が必要。光明寺の「もみじ」や長岡天満宮の「きりしまつつじ」、柳谷観音楊谷寺の「あじさいウィーク」のように、地域で主体的に作り上げるイベントも参考にしていきたいです。
サマーナイトカフェ
冬の風物詩イルミネーション
地域に愛されるバンビオ
━世代を超えて人が集う場所となったバンビオ。完成から年月を重ねたいま、どのように地域に根づいてきたと感じますか。
花子百貨店
奥村(㈱アール・アイ・エー/事務局支援)
今の再開発は、高層マンションの下に商業施設がちょこっとあるようなパターンが主流。でもバンビオは違う。ここは地元の人が住み、使い、集まっている。手づくり感があるし、地域にちゃんと根づいています。完成当初は、「この雰囲気、地域の人たちにどう受け止められるかな」と少し不安もありましたけど、今は本当に、愛着を持って使い続けてくださっているのがうれしくて、設計者として幸せな気持ちです。
中井(㈱アール・アイ・エー/事務局支援)
ゾーニング(空間の分け方)の妙もこのエリアの強み。住宅を奥まった場所に配置することで、商業施設と距離が生まれ、まちに落ち着きと余白ができました。視界の抜けもあって、静けさとにぎわいが共存する空間になっています。20年前、まだ広場もできる前の段階では、今のこの景色はなかなか想像できなかった部分もありますけど、ごちゃごちゃと工作物で埋めることなく、空間に余白がある。そういう意味でも、この計画はとても上手くいったんじゃないかと私は思っています。
ビル管理会社の選定では、プロポーザル方式(※)で複数社から提案を受け、近鉄ファシリティーズが選ばれました。長岡京都市開発、市、再開発組合の3者の出資バランスも考慮し、最も現実的な体制が構築できたと思います。
※複数の事業者から企画を募り、提案内容を審査して選ぶ方法
塚野(近鉄ファシリティーズ㈱)
このプロジェクトに関わり始めたのは、管理規約の許可が出たころからです。市の担当の方にはとても丁寧に対応していただきました。管理費設定、業務分担、駐車場の調整など、現場での密なやりとりが今も印象に残っています。
佐々谷(長岡京都市開発㈱)
現在、駐車場の稼働率はかなり高く、税金や地域への還元にもつながっています。コロナ禍以降、メインホールの利用は減っていますが、会議室などの貸館関係は順調です。小規模な貸し会議室は特に好調ですね。全体の利用実績としてはむしろ当初より増えてきているんです。これはありがたい傾向だと思っています。
未来につなぐ “まちづくり”
━行政・民間・地域が力を合わせて進めてきたこの再開発。これからの長岡京市に、どんなまちの姿を思い描いているのかお聞かせください。
塚野(近鉄ファシリティーズ㈱)
20年ぶりに現地を訪れて、噴水で遊ぶ子どもたちの姿を見たとき、思わず胸が熱くなりました。当時と同じ光景が、今も残っている。1階の子育て支援施設のにぎわいも健在で、本当にうれしかったです。
山本(再開発部長:当時)
私たちが目指していたのは、「便利さ」と「のどかさ」の両方がある長岡京らしいまちでした。駅前にはにぎわいがあり、少し歩けば自然が広がる。そんな“いいとこどり”のまちを未来に残したいという思いでした。
奥村(㈱アール・アイ・エー/事務局支援)
旧工場跡地の地権者さんは自社の敷地だけで計画を完結させようとしていました。でもそこに、行政が「それではだめだ」とストップをかけ、まち全体の構想に切り替えた。その判断がなければ、バンビオは今の姿にはなっていなかったと思います。
中川(㈱アール・アイ・エー/事務局支援:当時)
まちづくりは、市民だけでできるものではありません。行政、民間、そして地域——この3者がそれぞれの役割を果たすことで進められていくものです。行政が舞台を整え、民間が動き、地域が支える。これからもその連携が必要です。
山本(再開発部長:当時)
今回のような再開発の経験を、次の世代へつないでいってほしいと思います。今は再開発が難しい時代かもしれませんが、それでも「まちの未来のために動こう」と思える人がいてくれたら、こんなにうれしいことはありません。
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