『ブラタモリ』などテレビ番組でもおなじみ京都高低差崖会崖長・梅林秀行さんに、長岡京市の魅力を案内してもらう3回シリーズの最終回。最後は天下分け目となった「山崎合戦」の時、明智光秀の本陣がどこにあったのか!?まち歩きで探ってみましょう~!学生時代は考古学専攻だった梅林さん、大興奮でした!!
【今回のダイジェスト版】
古墳の実は…。戦国時代、アレに使っちゃってました!
梅林 今日は天下分け目の戦いとなった「山崎合戦」で明智光秀軍がどこに本陣を築いたのか探ってみたいと思います。
― どこに本陣を築いたのか、正確にはまだ分かっていないんですよね。
梅林 今のところ恵解山(いげのやま)古墳かサントリー京都ビール工場内にある境野(さかいの)一号墳のどちらかと言われているんですよ。
― え! 古墳の上に本陣を作っちゃったんですか?
梅林 そうなんです。詳しくは後ほどということで、まずは西国街道を歩いて恵解山へ行ってみたいと思います。
― やはり西国街道は大事なポイントなんですね。
梅林 はい、西国街道は交通の要所ですからね。現在と多少、場所は変わっているかもしれませんが、歩いてみると川やお城、古墳との位置関係が分かると思います。
梅林 この辺は犬川も小泉川も北西から南東にむけて流れているんですね。これは断層運動。断層が川と平行して走っていて桂川、樫原断層(かたぎはらだんそう)、小畑川、光明寺断層、犬川、といった風になっています。そして最初の目的地、恵解山古墳は意外に注目されていないのですが、光明寺断層の末端上にあるんです。
梅林 お、陸橋から古墳が眺められますね。手前が後円部、奥が前方部です。
―歴史の概要がわかる解説板なんかもあって、読んでおくといいですね。
前方後円墳って大阪の仁徳天皇陵古墳のイメ―ジが強いですが、長岡京市にこんなに立派な前方後円墳があるんですね。あれ? 上にお墓がありますね。
梅林 そう。段々畑状の墓地(A)が見えますよね。実はこれ陣城(じんじろ=戦場における臨時の城)跡ではないかと言われているんです。調査報告書でも二言目には「直接的な証拠はないが」と記しながらも、しきりに陣城ではないかとほのめかしていますね(笑)。だけれど戦国時代は古墳を陣城に使うことが多かったんですよ。
― へー!?陣城を!!
梅林 特に関西が多いですね。高槻市にある今城塚古墳、藤井寺市の津堂城山古墳、堺市の仁徳天皇陵古墳とか。
― 天皇陵もですか!?今では考えられません。
梅林 そうなんです。大阪の古墳は大坂夏の陣など数多くの戦いで陣城に使われたんですよ。近くに行ってみましょう。
超マニアックな見どころも! 古代人の工事跡を発見か?
― このコンクリートの壁の部分ですかー。断層によって急な崖ができてますね。さすが、学生時代は考古学を専攻されていた梅林さん~。まだ誰も気づいてないかも(笑)
梅林 コンクリートで固められている部分が最近まで残っていた段丘崖。調査報告書にちらっと書いてあるのですが、この古墳は断層崖の土を削って墳丘にどんどん土を盛って作ったみたいですね。
だから、もしかしたらこの崖は古墳時代の工事の跡かもしれません。
― お~、なんとロマンチックなぁ~。それにしても昨日、雨だったからぬかるんでいますね。
梅林 ここは湿地でした。段丘のすぐ下ですから水が溜まってしまいます。
古墳は権力の象徴として作られますが、この古墳は立地的には川から見えるように作られたんだと思います。川を行き来する人が船の上から古墳を見ていたのでしょう。
― こうやって埴輪が並んでいるのを見ると、博物館に展示されているのと違って当時の様子が実際に分かりますね。
梅林 そうですよね。長岡京市には考古学の研究者が、たくさん住んでおられるので古墳整備の審議委員は、ものすごい豪華メンバーなんです。もうね、名前を拝見したらオールスターやん!って感じですよ。
ですから恵解山古墳の調査報告書には、その審議委員の方たちがどうやって古墳を復元するか、最後の最後まで悩んだ様子が書かれているんです。
その中でも素晴らしいなと思うのは竹藪を残したことですね。長岡京市の地場産業として建材用の竹や食用タケノコを育てていた痕跡を残したんです。
これは英断だと思います。古墳時代の姿、その後の姿、両方を残すことで古墳時代後の生活の痕跡も感じられますもんね。
― 説明板が沢山あって、しかも分かりやすいですね。
梅林 本当ですね。しかし、これは日本の古墳整備の成果が結集されていますね。ピカイチかも!すばらしい。
恵解山古墳の円筒埴輪は、梅林さん憧れのB横付き!
梅林 うわー、恵解山やりますね! B横(B種横ハケ)が付いている!
― B横?さすがマニアックですね。(笑)
梅林 これこれ、横線が入っているでしょ?
― 模様のことですか?
梅林 円筒埴輪を作る際、面を平らにするために木の板でなぞるんですが、木が摩耗していくと年輪部分が浮立ち、面に筋が付くんです。
それが刷毛目(はけめ)にみえるから「ハケ」って呼ばれています。恐らくターンテーブルみたいな作業台の上に載せて回しながら作ったんですね。だからハケ目のストロークが長い。
― 円筒埴輪の表面はツルツルなんだと思っていました!間近で見ると発見の連続ですね。
梅林 報告書にも埴輪の復元は気合を入れたと書いてあったので、今日は楽しみにしていたんです。長岡京市の知性が集まって復元した感じですね。すごいなー。ずっと見ていたいですね。いいもんですね。
古墳を陣城に改造ってどういうこと??
― 古墳の上にやってきました。いい眺めですね。
梅林 恵解山古墳が本陣としたら、ここが光秀目線と同じってことですね。
― サントリーの工場があそこ(赤矢印)なので、羽柴軍の陣があった天王山はその向こう(黄矢印)でしょうか。
梅林 もし恵解山古墳が光秀の本陣だとすると、羽柴勢が高い所にいて、光秀軍の方が低い位置にいたということになりますね。天王山から見ると眼下の沼地にボコッと光秀軍の本陣がある感じです。実際に立ってみると割と、え?っという感じがします。
― ここでいいの?という。(笑)
梅林 でも、火縄銃の銃弾も出土していますし、後円部を3段の階段状にしたり、前方に堀状の窪地や平な部分(曲輪跡か?)を作った跡がいくつも出土していて、かなり大がかりに城っぽく作り変えているんですよね。
だから明智もしくは細川藤孝以前の有力者、三好政権が築城した可能性がありますよね。いずれにしても陣城として改造されている気がしますね。
梅林 続いて後円部の南側に行ってみましょう。この古墳はいいですね。楽しいなあ。この辺は城っぽい雰囲気が濃厚にありますね。
― 山城っぽい。
梅林 現代に公園整備される前は、もしかしたら中世の陣城跡がまるまる残っていたかもしれないですね。
― 段差も戦国時代当時のままなのでしょうか。
梅林 発掘調査で、この斜面がものすごく突き固められていたことが分かっていて。山城に多いのですが、「切岸(きりぎし)」といって、山の地肌を削って断崖にして敵が登れないようにする技法があります。
― ツルツルにして突き固めて?
梅林 急角度にしてね。その切岸みたいなんです。もし、光秀の陣営がここにあったとしたら陣城の下は沼地で、後詰(ごづめ)に勝龍寺城があり、犬川が堀代わりになるので確かに守りやすいかもしれないですね。
考古学の世界で恵解山古墳といえばコレが有名!
梅林 で、これですよ! 恵解山古墳といえば、これです。先ほど、歩道橋から見えたお墓を昭和55年に拡張しようとした時、下から鉄器や埴輪がどんどん見つかったのですが、それがこれです。
― 出土した時の様子を陶板に焼き付けているんですね! これ、全て武器ですか?
梅林 ここは鉄製品の武器だけを収める場所だったんでしょうね。こんなことするのは畿内の豪族クラスですよね。考古学の世界で恵解山古墳といえば、これが有名なんですよ。
― すごい数・・・。前回、勝竜寺城公園から見た三角末端面といい、恵解山古墳の鉄製武器といい、長岡京市には教科書に載るようなものが、たくさんありますね。
子どもたちの自由研究のネタ、超豊富ですね。親も一緒になって楽しめそう~。
★ミニ知識★
鉄製の武器―大刀146点前後、剣11点、槍57点以上、短刀1点、刀子10点、弓矢の鏃472点、ヤス状鉄製品5点、合計700点も出土したんですって!
日本庭園は古墳から生まれたかもって、どういうこと?
梅林 あ! 上から東の「造り出し」が見えますね。こちらは西側とは違って州浜(すはま)になっているんです。
小石で浜辺を表わした「州浜」跡。その発掘跡を芝生で表現しています
― 州浜というと宇治の平等院の池みたいな小石で浜辺を表わした、あんな感じですか?
梅林 はい、ここのはもっと小さいのですが。庭園の歴史研究で州浜は日本オリジナルのものだと言われているんです。
梅林 中国や朝鮮に州浜は無いんです。なぜ、当時の日本は中国、朝鮮半島の影響を受けながら州浜が生まれたんだろうという議論がある中で、古墳から生まれたのではないかという説があります。
つまり、我々が思う以上に古墳は庭園の要素があったのではないかというんです。古墳の堀を海に見立て、「造り出し」に緩い傾斜を作り渚のように細かい石を敷き詰めているんですね。
しかも、ここからすっごくカワイイ、アヒルみたいな水鳥の埴輪が出土しているんです!
― 見たかった! 水鳥は復元しなかったんですね。
梅林 ほんとうですね。とにかく、すごいカワイイんですよ。
― 古墳に州浜を作ることはよくあるんですか?
梅林 そうでもないんです。
ただし、群馬県にある古墳時代の豪族の居館だったという三ツ寺遺跡にも州浜のようなものがありますから、州浜を作ること自体は古墳時代にはよくあった事みたいですね。
でもあんまり知られていないんですよ。今まで僕は、古墳に作られた州浜が庭園のルーツだという説は半信半疑だったんですが、恵解山古墳の報告書を読むうちに「あ、そうかもしれないな」と思えてきました。
長岡京市埋蔵文化財センターで水鳥を展示してます。本当にカワイイので、ぜひ、足を運んで見てみてくださいね。写真:長岡京市埋蔵文化財センターHPより
果たして光秀本陣はどっち!
梅林 それでは、次は、もう一つの光秀の本陣ではないかといわれている境野一号墳へ行ってみましょう。
― こちらは柵がしてあって中に入れないですね。
梅林 墳丘斜面の最下段かなというのが、この道路部分ですね。うわー、古墳の中を見てみたいですね。
☆というわけで、現在、サントリー京都ビール工場の敷地内にある境野一号古墳へ。普段は非公開ですが、本日はご好意により特別に許可をいただき見せていただけることになりました。
― うわ~、これは古墳というより竹藪ですね!
梅林 古墳の形状が全く分からないですねぇ。全く平地が無いし、竹林になっているので後から相当掘っているし、墳丘の損壊具合がすごいですね。
― タケノコを育てるには土に稲わらを載せ、さらに土を盛りますから表面はデコボコになっていますね。
梅林 光秀の陣城だったかは別として、調査では堀とかも出ているので陣城だったみたいですよね。でも貴重ですね。しばらく立って居ると、だんだん窪地が堀に見えてきますねえ。
― こちらも陣城かもしれないということは、恵解山古墳へも歩いてすぐですし、もしかして両方、陣地に使っていた可能性だってありますよね。
梅林 そうですね。実際に歩いてみると、天王山との距離感、西国関係の位置関係も分かったので、これはまち歩きのだいご味ですね。
【今日、歩いたコース】
梅林 恵解山古墳では現地に立つことで、明智光秀や羽柴秀吉の思考や感情にシンクロするようでした。これこそフィールドワーク。これこそ現場感覚ですね。
そして長岡京市こそ、じつはどこに行っても各時代のライブ感覚を味わえるとても貴重なエリアと思います。人類の歴史イコール長岡京市の歴史なのかも!?これからも臨場感あふれるまち歩きをご一緒できたらうれしいです。
本日歩いた歩数10000歩!!
撮影:岡タカシ
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