築城450年の勝龍寺城と縁深い武将【信長/光秀/秀吉】ゆかりの地巡り@京都

昨年、大河ドラマ『麒麟がくる』で全国的に注目され、市民からはガラシャ祭、細川家ゆかりの城として親しまれている長岡京市の勝龍寺城は、今年(2021年)で築城450年を迎えます。 
明智光秀が主君・織田信長を討った“本能寺の変”から豊臣秀吉の天下統一まで、勝龍寺城も歴史の舞台のひとつとなりました。

今回は、勝龍寺城と縁深い戦国武将【信長・光秀・秀吉】ゆかりの歴史スポット〈長岡京市・大山崎町・京都市〉をご紹介。コロナが落ち着いたら、御朱印をいただきながらぜひ京都を巡ってください。

 案内人は、広報長岡京で現在歴史4コマ漫画『文武りょーどー藤孝さん』を連載している文化財保存活用課の職員・井内さんです!(写真:京都新聞で取材された長岡京市の歴史ピクトグラムは井内さんが作成)

織田信長の命で細川藤孝が大規模改修、日本最初期の「天主」が作られた!?勝龍寺城

1571(元亀2)年、織田信長が西国の大名たちに睨みをきかせるため、西岡地域(現在の長岡京・向日市周辺)を支配していた細川藤孝に勝龍寺城の大改修を命じました。 城郭研究のエキスパート中井均先生の研究によると、勝龍寺城は、近世城郭の原点と言われる安土城よりも早い時期に「瓦」「石垣」「天主」を備えたお城だということが明らかになりました!!
上のイラストは千田嘉博先生(城郭考古学者)監修による天主イメージ図。 

キャプション)細川幽斎のお墓がある天授庵(南禅寺塔頭)に伝わる肖像画『絹本着色細川幽斎像』

戦のために、こんな厳つい城をいち早く築いた藤孝ですが、彼は文化的な面でも大変優れた人物で、天皇や公家からも一目をおかれる存在だったんですよ。勝龍寺城でも能や連歌会が行われたという記録が残っており、ここは、文化サロンでもあったといえるかもしれません。

こちらの写真は勝龍寺城の北門の石垣です。実は、写真の赤線より下は、藤孝が築いた石垣がそのまま残っている箇所なんです。石のサイズや色がバラバラで、なにか荒々しさを感じますね~。自由に見学もできて、触ることもできる戦国時代の石垣は、なかなかレアですよ。

長岡京市では、勝龍寺城の発掘調査で出土した2種類の瓦をデザインした築城450年記念の御城印を販売中。販売場所は、長岡京市内の観光案内所3か所と神足ふれあい町家です。上の丸い瓦(軒丸瓦)は光秀の坂本城(大津市)のものと同じ型から作られています。下の平たい瓦(軒平瓦)は信長の宿所であった本能寺跡(京都市)から出土したものと同じ系統に属するものです。
◆千田先生が勝龍寺城を現地で解説する動画👇

◆細川藤孝の子孫・細川護光さんインタビュー記事👇

光秀VS秀吉!“山崎合戦”で光秀が拠点とした勝龍寺城

光秀は本能寺で、主君信長を討った後、勝龍寺城を拠点として“山崎合戦”に挑みました。しかし、羽柴秀吉率いる大軍勢を前に光秀は敗北し、勝龍寺城に逃げ込みます。

光秀は、さきほども紹介した「北門」から坂本城を目指して出発したといわれていますが、結果、途中で命を落とすことになります。ところで、上の写真のように、折り曲げられた城の出入口は「枡形虎口」といい、こちらも藤孝が取り入れた当時最先端の構造の一つです。

◆千田嘉博先生の「勝龍寺城」現地レクチャー動画で北門桝形虎口を解説👇 

◆信長が仲人となり光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)は藤孝の嫡男・忠興のもとへと嫁ぎ、勝龍寺城で新婚時代を過ごします。“本能寺の変”を機に時代に翻弄されてゆくお玉(ガラシャ)の生涯👇


戦国時代の鉄砲玉が出土!光秀本陣跡とされる恵解山古墳

勝龍寺城から徒歩10分ほどのところにある恵解山(いげのやま)古墳は、“山崎合戦”で光秀が本陣を置いたとされる場所です。え?古墳に?と思われるかもしれませんが、小高い高まりである古墳は城としてもよく使われるんですよ。山崎合戦の際のものかは不明ですが、発掘調査では、戦国時代の鉄砲玉が数点出土しました。

古墳頂上に登ると、光秀と同じ目線で天王山を見とおすことができます。
◆ ブラタモリでお馴染み梅林さんが紹介する恵解山古墳の記事👇 

古墳の話もさせてください^^ 実は、恵解山古墳は乙訓地域で最大の128mという規模を誇ります。古墳には埴輪が立てられ、斜面には葺石(ふきいし)が敷き詰められていました。現地は一部が当時の姿に復元されています。
城もいいですが、私はどちらかといえばこっち派という…。皆様はどっち派ですか?
◆ピクニック(墳ピク)スポットとしても人気👇

★Information 恵解山古墳/見学自由/阪急西山天王山駅から徒歩15分


“山崎合戦”で秀吉軍の本陣に!?出世のパワスポ、宝積寺

JR長岡京駅から1駅のJR山崎駅から徒歩8分。天王山の登り口に位置する宝積寺(ほうしゃくじ)は、鎌倉時代の閻魔大王坐像や金剛力士像など乙訓エリアで最も多くの文化財を有する寺院として知られています。
 天王山といえば、光秀と秀吉が戦火を交えた“山崎合戦”ゆかりの地。秀吉軍がいち早く天王山を占領したことで戦いを優位に進めたとする物語から“天下分け目の天王山”と呼ばれるようになりました。

宝積寺は秀吉軍の本陣が置かれた場所ということから、境内には秀吉が腰かけたと伝わる「出世石」(下の写真)や、秀吉が戦勝祈念して建立したとも伝わる三重塔といった見どころも。三重塔は一夜で建てられたという伝説から、「一夜之塔」と呼ばれています。常人には不可能ですが、秀吉さんらしい伝説ですよね。

 山頂へ登ると、秀吉が大坂城を築くまで本拠とした山崎城跡があります。同寺も山崎城の一部として利用されていました。
また宝積寺から徒歩10分の大山崎町歴史資料館では、山崎合戦を映像で学べるコーナーも。

閻魔堂にお参りしたあとは、御朱印もいただきましょう。閻魔大王の帽子と梵字のダイナミックな印が印象的!!(300円)
★ Information 宝積寺/075-956-0047/乙訓郡大山崎町銭原1/9:00~15:30※緊急事態宣言中は~14時/無休/閻魔堂の拝観料は400円/JR山崎から徒歩8分 


信長終焉の地、歴史的大事件の舞台・本能寺

信長が上洛した際に宿泊所としていた法華宗(本門流)の大本山、本能寺。現在、寺町通りにある本能寺は“本能寺の変”の後に秀吉によって移転再建されたもの。

元は現在地から2キロほど離れた四条堀川周辺にあり、石碑(写真)が残るのみ。

信長は“本能寺の変”の当日、100人ほどの家来と本能寺に宿泊していました。光秀の謀反を知った信長は激闘の末、本能寺に火を放ち自刃します。
 上の写真は織田信長公廟。のちに信長の三男・織田信孝の依頼によって本能寺が建立したもの。

本能寺は度重なる戦乱や大火から守り抜いた宝物を多数、宝物館に所蔵。信長の肖像画や茶道具、美術品など遺品や文化財を展示しています。
写真は、信長が所持していた茶道具のひとつ。中国福建省で作られた「建盞天目(けんさんてんもく)茶碗」。

法華宗の大本山だけに、躍動感あふれるお題目が見事。織田家の家紋と本能寺の寺紋が入っています。(300円)
★ Information 本能寺/075-231-5335/京都市中京区寺町通御池下ル本能寺前町/9:00~17:00/宝物館は入館料大人500円(年末年始と展示替え日は休み)※緊急事態宣言中は休館/地下鉄京都市役所前駅からすぐ
 ※移動の目安:阪急長岡天神駅⇒地下鉄京都市役所前駅まで所要時間24分、乗り換え2回


信長一族や家臣110余名が眠る阿弥陀寺

今年(2021)は、信長の440回忌にあたる年ですね。阿弥陀寺の正式名称は「蓮台山捴見院阿弥陀寺」。信長の戒名「捴見院(そうけんいん)」を院号とする寺院です。

信長と親交が深かった開山・清玉(せいぎょく)上人は、“本能寺の変”の際に僧徒10余名を率いて駆けつけるも時すでに遅し、信長は既に自刃していました。
 「死骸を敵に渡すことなかれ」と信長の遺言により、森蘭丸をはじめとする近習の武士より遺骸を託された清玉上人は、その場で火葬、遺骨を法衣に包んで持ち帰り埋葬したと伝わっています。

 阿弥陀寺の境内では信長のほか、嫡男の織田信忠や森蘭丸ら家臣のお墓にもお参りすることができます。いざ墓を目の前にすると、不思議なもので、「お疲れ様でした」と言いたくなりますね。

織田信長本廟の墨書と織田家の家紋の押し印が目を引き、知的好奇心を刺激してくれる御朱印です。(500円)
★ Information 阿弥陀寺/075-231-3538/京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14/9:00~16:00(6/2信長忌のみ堂内拝観可能10:00~14:30※時間要確認、1000円)/地下鉄今出川駅から徒歩10分
※移動の目安:阪急長岡天神駅⇒地下鉄今出川駅まで所要時間22分、乗り換え1回 


秀吉と側室・淀君が過ごした淀古城跡、妙教寺

 JR長岡京駅から路線バスで約20分の京阪淀駅から徒歩8分の場所に妙教寺はあります。 この辺りに秀吉の側室、淀君が居城とした「淀古城」があったとされ、その跡地の一部に妙教寺が立っています。

現在の淀城より北側を歩くと、「北城堀」や「南城堀」といった地名(地図ピンク線)といった、なにやらお城っぽい地名が…。秀吉や淀殿が過ごした淀城はこのあたりだったのかな~と想像しながら散策するのもおもしろいですね。
★Information 妙教寺/京都市伏見区納所北城堀49/京阪淀駅から徒歩8分


秀吉の側室・淀君も信仰した「西の清水」柳谷観音楊谷寺

花手水発祥の地として話題の柳谷観音は、眼病平癒の祈願所として皇室から「西の清水」と呼ばれ、崇敬された由緒ある寺院。1200年の歴史をもっています。

その美しさから秀吉の側室として寵愛されていた淀君。淀古城に住まう間、弁天堂(上の写真)の脇から湧き出る霊水・独鈷水(おこうずい)を運ばせて毎日顔を洗っていたとお寺に伝わっています。

そのことから弁天堂は美心祈願のパワースポットに。淀君ゆかりの御朱印の授与もされています。内面を磨く大切さを「美心」の文字に込めているそう。(300円)

弁天堂の中をのぞくと、信徒さんが寄進された気品あふれる淀君の日本人形のお姿が。 また、柳谷観音の阿弥陀堂には淀君によって寄進された厨子が安置されています。

淀君も愛した、空海さんゆかりの独鈷水持は持ち帰ることもできます。約1200年、歴史に残ってきた「水」だと思うと、感慨深いものがありますよね。 

もうひとつの清水寺が長岡京市にあった?「西の清水」柳谷観音👇


★Information 柳谷観音楊谷寺/075-956-0017/長岡京市浄土谷堂ノ谷2/9:00~16:00/JR長岡京駅または阪急長岡天神駅からタクシーで約15分 
※毎月17日縁日はJR長岡京駅・阪急西山天王山駅からシャトルバスが運行

 今回は、有名武将たちの(信長・光秀・秀吉)足跡を辿ることができるスポットをご紹介しました。コロナが落ち着いたらぜひ、長岡京市を起点に巡ってみてくださいね。 


 

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